Reflexionen

ガブリエルへの疑問

· ASANUMA Kouki

マルクス・ガブリエルに関する私の疑問は、彼の思想において〈ない〉と〈ある〉がどのように内的に連関しているか、という問いに集約される。ガブリエルには専門的著作と通俗的著作の二種類があるが、フィヒテの例からも明らかなように、後者は前者のエッセンスを煮詰めこそすれ、薄めたりはしない。そこで『なぜ世界は存在しないのか』と『私は脳ではない』という二つの著作を取り上げると、共に軸となっているのは〈ない〉から〈ある〉への転換である。つまり〈世界は存在しない〉から〈無数の意味の場が存在する〉へ、〈私は脳ではない〉から〈私は精神である〉への翻転が試みられている。これによって大切なことが語られているのは間違いない。しかしこの二つの議論において〈ない〉から〈ある〉への移行がどのように遂行されているのかは杳としている。しかもこの不明瞭は〈ない〉と〈ある〉と呼ばれている二つの事態へも逆流し、そこに蟠踞している。かつて上田閑照は「私は私である」という命題を「私は私でないがゆえに私である」という命題に書き換えようとした(世界についても同様のことが提案されている)。上田のこのような定式を踏まえると、ガブリエルの場合には〈ある〉の内に〈ない〉が十分に深く織り込まれていないという感じは否めない。ガブリエルの説く〈意味〉や〈精神〉という概念が旧套を脱していないように感じられるのも、そのことと無関係ではないだろう。しかしガブリエルを遠景にして眺めると、上田の発言も深く玩味できるような面がある。例えば、西田や田邊の場合には、このような否定性は常に〈弁証法〉という強迫観念に纏わりつかれているが、ガブリエルや上田になると、そのような呪縛は消えてしまい、非弁証法的性格が強調されているように思われる。