Reflexionen

「政治と霊性」後書

· ASANUMA Kouki

京都学派をめぐる諸問題のなかでも、一般に関心が集まりやすいのはいわゆる「戦争責任」の問題であろう。とはいえ、この問題を真剣に論じようと思うと、戦中期だけでなく戦後の京都学派の動向にも十分に注意を払わなければならない。しかし、そういう問題意識のもとに戦後の京都学派の発言を丹念に追っている文献は多くはない。竹内好の古典的論考にすでにそのような問題意識が見られるにもかかわらず、それを展開しているのは米谷匡史くらいである。

竹内や米谷の論考は、戦後日本の思想的土壌に戦中期の京都学派の思想が—はっきりとは意識されないとしてもいつの間にか—染みわたっている、ということから出発している。彼らの論考が暗示していることを、私なりにまとめると、その理由は二つある。一つは、戦中期の京都学派による大東亜戦争へのコミットメントが海軍側に立っておこなわれた、ということであり、もう一つは、戦勝国となったアメリカが戦後の対東アジア政策を進めるにあたり、大日本帝国の方針(「植民地なき帝国主義」を始めとする)を基本的に踏襲するにいたった、ということである(外的な理由)。

したがって、さまざまな戦後処理はおこなわれはしたが、その根を完全には断たれることなく、戦中期の京都学派の思想(「近代の超克」)は生きのびた。たしかに、そうした大人の事情については、戦後を生きる子供たちはむしろ知らないほうがいいかもしれない。しかし、だからと言って親の誤ちをくりかえしていいわけではない。こうして彼らに課せられたのは、近代化(西洋の文化をその根源から学ばなければならない)と脱近代化(しかしそれも西洋的な近代を超えてゆくためである)という二重のカリキュラム(修正路線)であり、その際「前者の課程を修了した上で後者へ進む」という順序が厳守されなければならなかった(内的な理由)。しかし、このような事情をすべてわきまえ、それをしつらえている当の大人が、子どもたちと同じ目線でものを見ているはずはない(これら二つから逸脱する可能性)。

戦後の京都学派、ひいては「近代の超克」の問題を考えるにあたっては、この三つの次元を区別しなければならない。このことを、私は今回の考察から学んだ。